なんかブログ書くのだるくなってたわ。理由は色々あるけど、自己満と言え誰かに見てもらいたいみたいな自意識は死んでないみたい。安心した。心というか、基本的な俺の自我は丁度中二で止まってる感じがする。自意識、自己顕示、承認欲求で芸術を履き違えてそれっぽく塗り固められた汚いスケッチブックっぽい。

 

2020年を迎えたらしい。まさしく、「らしい」くらいの感覚。全く実感がないな。今年は今西(友達)の家であんま知らん人も交えて大晦日から元日を過ごした。毎年欠かさず見てた年末の特番とか、紅白もガキ使もCDTVもおもしろ荘も見ずに鍋したり、話したり、ゲームしたりっていう年越し。楽しい夜やったし、幸せやった。初対面が何人かいたけど良い人やったり、おもしろかったりして、行くまで不安やったけど結構過去一くらいで楽しめた年越しではあった。ありがとう。

 

そういう幸せな時間を感じたりする度になんか漠然と最近は死を意識する。twitterでバズってる100日後に死ぬワニとかの影響もあるんかもしれんし、俺はミーハーやからおおいにありそうやけど。でもなんかそんな感じで、2020年はもしかしたら死ぬかもしれん年らしい。毎年そうやし、毎日そうやねんけど、そう思って生きていけたらいいんかなって思った。死ぬかもしれんなっていうのは予測やけど嫌な予感を感じてる点で実感に当たると思う。そういう意味で去年よりかは幾分かマシな年明けやわ。2019年、一番実感が薄かった年。一番無駄にしたと感じた年。そのおかげで気づけたこともある。2020年、多分どうせ無駄にするし、多分どうせ死なんけど、もしかしたら有意義にできるかもしれんし、もしかしたら死ぬかもしれん。そういう中で生きてたいし、12/31〜1/1にっっけての夜みたいな時間も大事にしたい。

 

夜更かししたから暇つぶしに書いてしまった。とりあえずは思い出を抱きしめて眠ることにする。世界で起こることのほとんどが俺に関係ないけど、俺に起こることのほとんども世界に関係なくて、なんかそういう関係性もいっぱいあるけど、俺に起こることや、あいつに起こることがお互い、心配やったり、励ましやったり、切磋琢磨とは違うけど、感情をしっかり機能させてくれるような関係もあって、きっとこれは大事にすべきなんやろうなとふと思った。

おやすみ。

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過去を脱ぎ捨て、現代を纏う。

イキったタイトルになったけど、これは山本耀司情熱大陸の中でナレーションされてた言葉です。

ここからは知らない人用にwikiにあるようなことを書いてくんで、興味無い人はとばして大丈夫です。

 

んで知らない人のために言っておくと山本耀司yohji yamamotoっていう日本のファッションブランドのデザイナーです。

1943年10月3日生まれ76歳、東京の新宿出身で、父親を戦争で亡くされてて、オーダーメイドの洋装店を営む母親に育てられ、慶応大学法学部卒業後、文化服装学院に入学して、在学中に装苑賞(めっちゃ有名な雑誌が新人デザイナーを対象としてるめっちゃ名誉ある賞)とかを受賞してます。

それで元々1972年にY'sっていう会社を設立してレディースの服を作っていて、1981年にYohji Yamamotoっていうハイエンドラインがスタートしました。

(このラインってなんやねんって話なんですけど、大手のブランドではよくあるんですが、そのブランドが手がけるものを細分化されたものをラインって呼ぶって認識で大丈夫だと思います。ざっくりいえばターゲットの性別だったり、年齢層だったりを絞って、そのターゲットに向かった商品を展開する時に新しくブランドを作るみたいな感じですかね。分かりやすく言えば、すかいらーくグループがガストやったり、バーミヤンやったりする感じです。

だから元々は女性用だったけど、今では男性用にも服作ってるよ!!!ってことです。)

yohjiって今でこそ結構男性が着てるイメージあるけど元々はレディースラインからスタートしてます。今ではadidasと共同でやってるY-3とかは僕ら世代の若者にも人気があるし、最近のビッグシルエットが流行ったりとかの影響もあってyohjiを着てる人もよく見かけます。

ブランドの特徴としてはモノトーンで、黒を基調としたアイテムが多いです。かなり大きめのシルエットや、アシンメトリーであったりっていうのも大きな特徴だと思います。

1981年にヨウジとこれまた有名なコムデギャルソンがパリコレでデビューしました。今でこそビッグシルエットやアシンメトリー、ダメージ加工、モノトーンのデザインはファッションとして成立していますが、当時のヨーロッパでは体のラインに沿った色鮮やかな服が主流であり、タブーとされていた黒を全面に押し出すデザインは「黒の衝撃」と言われ世界のファッション業界に大きなインパクトを与えたとされています。

かの有名なマルジェラやジョン・ガリアーノ山本耀司とコムデギャルソンの川久保玲に影響を受けたと口にしているほどです。

 

まぁここからが本題で、なんで急にこんな記事を書いたかと言うと、とあるyoutubeの違法アップロードがきっかけになりました。

 

https://youtu.be/TINmAOTA6VM

 

冒頭にも言ったけどこれが山本耀司情熱大陸です。僕はすごく感銘を受けました。

元々yohji自体はめちゃめちゃ好きです。

理由は父親がめちゃめちゃ好きだったから。

家に真っ黒の変な形のコートとかがあって、中学の時くらいからすごく憧れがあったからです。

 

僕が惹かれたのは紛れもなくそのデザインでした。冒頭に書いた通り既成概念を打ち壊すようなデザインが多くの人を魅了するんだと思います。

今回この映像を見て再認識したことはデザインがいいことはもちろん、ただ普通に"ファッション"を楽しむなら必要のないことかも知れないですが、そういうデザインに行き着いたバックグラウンド、考え、大げさに言えば思想や哲学みたいなものを知れば知るほどヨウジだけじゃなくて、そのブランドのアイテムに愛着が湧いたり、更にかっこよく思えたり、楽しめると思ってて、そういう部分でヨウジやギャルソンといった時代を作ってきたブランドっていうのはそういう部分が確立されているから多くの人を魅了すると思ってます。

ここからは自己解釈も含め、ヨウジのデザインのバックグラウンドについて語っていきたいなと思います。

ヨウジの作品は反骨思想、アンチ、と評されたりします。冒頭に説明したように、当時の主流を打ち壊したからこそ世界でも認められるようなブランドになったと思います。インタビューの中で慶応大学に通ってる頃に、周りの学生がお金持ちが多く自分と格差を感じた、生まれながらに格差があることなど、社会に当然のように存在する不平等さを身をもって感じてそれに意義を唱えるように周りの学生と同じようなことじゃなく、自分自身の道を切り開いた。彼の生き様が社会に対するアンチテーゼになっているなと感じました。

 

また彼は"伝えたいことを言葉で済ませられるなら言葉にすればいい、言葉に出来ない人が表現活動に自分の気持ちを託す"と言っていて、彼自身が感じたその不平等に対する反抗をデザインとして服に落とし込んでいるのだなと僕は思います。

リンクの貼った情熱大陸を見てもらえば分かると思うんですが、彼は自分自身のポジションに常に危機感を抱いて、ストイックに表現活動に取り組んでいることが伺えました。日本を代表するようなブランドになってもまだなお、自分自身を疑える懐疑心、主流を打ち壊してきた自身も通ったストリートの精神を持つ若い人々に対して憧れや、大御所の大作家が蹴落とされるのは常にストリートのパワーという考えを持っているのも素敵で、そこがyohjiというブランドが一切古くならない要因なんだろうなと思います。

 

"ものづくりは壊すことだと、今美しいもの、今流行のもの、綺麗だとか言われるものに対して、反対意見を言うことだ、それがものの作り手の役目だ"

 

山本耀司自身40年以上自分の発言を服で表現し続けている、この紛れもない事実がデザインに表れ、今でも人々の心を掴むんだろうなと思います。

 

タイトルにもある

過去を脱ぎ捨て、現代を纏う。

ヨウジの服にはこの言葉がとてもふさわしいなと思うし、本人が自分に対しても常に懐疑心を持ち、アンチすることで、古くならない、いつの時代にも通用する確固たるデザインが生まれているんだなと思います。

 

僕自身はyohjiの服を買ったことは無いです。

でも高校の時父親からY's for men(今はもうなくなったヨウジのメンズライン)のTシャツを貰って愛用してます。

自分でしっかり稼げるようになったら袖を通したいなと思います。

シンプルに60近い父親が20代、30代の頃に着てた服が2019年の今着ても違和感がない、かっこいいって事実が、ヨウジの服の全てを物語ってるなと思います。本当にすごいことだなーと思います。

 

近年ファッションの主流はファストファッションですよね。安価で大量に買える。〇Uやユ〇クロなんかがそうです。

結論から言うと僕はファストファッションを否定するつもりは全くないです。僕自身利用することもありますし、服に興味がある、無いに関わらず誰にでも手の届くもので、便利なものだなと思います。

ファストファッションは商業目的で、大衆をターゲットとした大量生産、大量消費のシステムを生み出しました。ただ安価で買えるのには、低いコストで働く人がいたり、社会全体として経済状況の悪化、賃金の低下といった現状があるというマイナスな側面もあります。

またファッション業界で働く、職人技とも言えるそれを破壊する行為に近しい事実もあります。ただこれに関しては、淘汰されないように売上を伸ばせるブランドにしろという意見もあると思うし、一理あると思います。ただ現状の経済状況なども踏まえて難しい問題であると思うし、ファストファッションの台頭がクラフトマンシップを侵したということはあるんじゃないかなと思ってます。

流行を追って、大衆に安価で提供するそれは服の大量消費を生み出して、服自体の価値を下げていくことも確かだなと思います。

3年前に流行った服は何十年後まで流行る事はないし、そもそも安価な製品は長期間の保管は厳しいです。そういう意味で使い捨ての服が増えてるんだなと思います。

そういう部分に目を向けると、服が好きだなとか、興味があるという身としては、この今の在り方に疑問を持つべきだと思うし、もっと深く学んで考えていきたいと思います。

 

世の中にはファッションが好きって人は多くいて、SNSを除けば同じような髪型、同じような格好、同じようなプロフィールを目にします。

でもそれに対して自分が感じてた違和感があって、その正体は流行に乗るとか、ファストファッションでいっぱい服を持ってるとか、何も分からずにブランド品を身につけるとか、現代の「ファッショを着る」行為をしている人間が多すぎることでした。「ファッションを着る」のは服が好きなんじゃなくて、服を着てる自分を見て欲しいだけ。これ自体が悪いのでなく、これは本当に服を好きな人間がすることなのかと疑問を抱くと言う感じです。ただの消費行動にしか見えないです。あと単純にインスタとかでイキってて嫌い。チヤホヤされたいだけに見える。

みんなと同じもの、同じことをすることになんの違和感も持たないそんな人間が自己顕示を振りまくなよっていう感覚もある。服だけの話じゃなくて、考え方も含めた話。

逆にみんなと違うことだけをステータスにしようとする浅はかさも見え透いててダサいなって感じたりします。

 

服を着ることは、その服、デザインに込められてる意味を考えたり、そのブランドや服の持つ思想を身に纏うこと、また服を着ることで自身を表現する一種の手段なのかなと自分は思います。つまりなんの考えもないのに、服を着ることでオシャレとか、イケてるなんてことは無い、世間が認めたとしても俺は認めない。ファッションは表現活動です。1着1着を選ぶこと、その選択すらも楽しめるし、買わなくても鑑賞すること、テーマや、何からから着想を得たデザインなのか知ることが楽しいと感じれる感覚があるかないかです。つまり服が好きなのであって、「着飾った自分」を見て欲しいで終わるのは作り手に対して失礼なのでは?と感じます。もちろん服だから着て、楽しむだけでいいし、それが当然というのが一般的なことかもしれないし、こっちがどんな楽しみ方をしたところでデザインした本人には伝わらないし、購買することでしか利益を与えることはできないんですけど、服を楽しむっていう観点では自分の感覚は間違ってないのかなと思います。

 

ここまで色々書いたけど、俺はyohji yamamotoが思想を含めて好きだし、これから着れるように、似合うような生き方をしたいって思う。yohjiに関わらず、好きな服に対して、ちゃんと作り手の表現を汲んだ上で着たい。ってことです。

 

後半のファストファッション云々は、確かに問題やと思うけど、知らん、勝手にしろとも思う。俺の感覚ではダサし、俺はそういう部分にしっかり違和感持つし、何も考えてない真似事をファッションってかこつけてそれで自己顕示を振りまくなみっともない。とも思う。

 

目つぶってろ、見るな、全部否定しろ。

 

最後まで読んでくれた人いるかな、ありがとう。また好きなブランドについてかけたら良いなって思ってます。

 

と りと め もない 。

久々にこうやって言葉を書いてると、

伝えることの難しさに直面する。

何が言いたいのか、何が伝えたいのか、一貫性を全部失ってしまう。

ガソリンは満タンで走り出したはいいものの、目的地が定まらずダラダラ走ってる途中でガス欠になったみたいなことを僕はこのブログでしているので下書きだけが山ほどある。

こういう所が自分の人生とリンクする。

結局中途半端なままだ。

自分に才能やセンスがあるとは思わないし、秀でているとも思わない。

ただみんながそれなりにできることを、それなり以上にはできたりするだけで、みんなができないようなことができるわけではない。

手の届く等身大の人間。

こんな僕にでも、僕の言葉や想いに賛同や共感してくれる人も少なからずいた。

それが自分の強みだなんて思ったことは無いけど、僕が何かを発信することが僕の側にいる誰かや何かには伝わっていて、与えられているってことを実感していた。

昔の話を引っ張り出してくるのは、若い頃着ていた服を太ってもう入らないのにタンスから出してきて自慢するようなもので、いや今の自分を顧みろよと言わざるを得ないのでかっこ悪いことも重々承知だが、高校の文化祭軽音のステージでのMCにいくつかのリアクションがあったこともあった。

そうやって自分には何かあると信じていた頃の自分は本当に何かしらを持ってたのかもしれないし、本当にただの自惚れだったのかもしれない。

でも確実なことは今の何も無いことを自覚した自分よりかは幾分かマシであること。

プライドや自意識だけが肥大化するのはかっこ悪いと思ってたけど、それすらも失った人間はもっとかっこ悪いことに気づいた。

まさしくそれが今の自分である。

ここまで色々と書いたが、僕は僕を一度諦めた。

Twitterで呟きを控えたり、ブログを書くのをやめてみたり、インスタのキャプションにバカ長い文章を書くのを恥ずかしがったり、軽音のサークルで承認欲求だけを満たしてみたり、彼女を作って安易な幸せに浸ってみたり。

とにかく普通であろうとした。

自分が思い描けるだけの一般的な大学生の型に自分を当てはめてみた。

これは僕の中で諦めと同義だったし、自意識を飼い慣らしたつもりでいた。

それなりに楽しかったし、それなりに幸せだった。

20歳の誕生日、夜道を独りで歩いてる時にふと今迄の自分を思い返して、今の自分が悲しくなった。

過去を否定してるようで嫌になった。

今の自分が過去の自分から逃げるような選択をしたこと、それに満足しかけてたこと、そのまま死んでいこうとしてたこと、無性に腹が立って、8/2誕生日になる直前に近くの川辺まで泣きながら全力疾走した。

地元の友達から祝いを受けたり、彼女と電話したりした時、僕は川辺で泣いていた。

普通になりたくない、このまま死にたくない。

クソダサいな。今思い返してもダサい。

普通はダサくない、そもそも普通って何、ダラっとした幸せもあるし、時には辛いこともあるし、このまま生きて死んでくことはかっこ悪くないし、きっと満足出来る。

のに、それに酷く怯えたり、悔しがったり、泣けた時に、少し自分を取り戻したって表現は良くないか、また自分の中で変化があった。

殊更尖ったこと、変わったこと、大衆の目を集めること、尊敬されることはできないかもしれない。

そんな僕にでもできることは何かあるかな。

ただ届けようとすること、伝えようとすることはやめたくないなと思った。

誰のためでもない紛れもない自分のために。

ここまで長々と書いた割に中身は無いな。

これはまぁ典型的な自慰行為か。

結局綴ることも下手くそになった。

とりあえず今日は寝ます。

せめての夢の中ではスーパースターになれればいいのにな。

せいかつのこと、

お久しぶりです。誰が見てるんやろうか、こんなブログを。今までブログを書く時にはテーマを決めてレポート書くみたいな、可能な限り受け取り手にも見応えのあるブログを書こうと頑張ってたけど、そういうの向いてないみたいというか、思いついた時に書ききらないと忘れちゃって結局ダメ。等身大の自分を晒しても僕は凡人なので、(そんな悩み誰にでもあるよでも吐き出さないだけ)と思われてそうで、俺はこう思ってて!!!みたいなのもちょっと疲れてたみたい、まぁエネルギーがあればそういうブログもまた書けたらいいな、、くらいには思ってます。

 

あ、めちゃめちゃダラダラしたつまらない文章を書くと思うので、ダルくなったらやめてください。

 

僕は(というか多くの人が)人間関係って得意じゃないんだろうなと思います。なので恋人とは長続きしないし、(しても不満が募って結局自分が相手に対して心無い言動をとってしまう)友達とはそのコミュニティに属してる間仲良く出来たら、もう会わなくてもいいやと思うタイプで、LINEや、Twitter、インスタのアカウントなどをコロコロ変えてます。人間関係の清算じゃないけど、リセットすることがある意味堆積したストレスをチャラにしてるという錯覚に陥ってるのかもしれないです。

 

そんな中でも、小中の友達(かわぐ)とか、高校の友達はバンドやってた時の友達をはじめとして、地元に帰ったら遊んでくれる元クラスメイトとかは本当に稀有な存在。こんな自分を大事にしてくれて、こんな俺が大事にできる人々。本当にありがたいと思うし、人格者だなーと日々感謝してる。

 

嫌なことが募り募って色んなことを放棄しして実家に帰ってゆっくりしたいと思う。軽音のサークルのオーディションに落ちた。うざい先輩が圧をかけてくる。部屋が汚い。目的感のない生活に嫌気がさす。実家に帰りたい。でも成人式は行きたくないな。同窓会とかもそう。今その人が何をしてるとか、どんなコミュニティにいるとか正直興味が無いし、自分よりはるかに優れた人間がマウントを取ってる姿も容易に想像出来る。あの頃の俺じゃもうないよ。だからあの頃のままでそういう場に行けないので、本当に死にたくなる。歳を重ねるにつれてしょうもない自分が顔を出す。その度に蓋をしてるけど、そうやってなにかのきっかけで溢れ出して、泣きたくなるような日もある。最近はフジファブリック聴いてみたり、tofubeats聴いてみたり、ネバヤン、ヨギーみたいなシティポップ聴いたり、plenty聴いたり、かと思えば、宇多田ヒカルとかJ-POPもバチバチに聴いてみたりしてます。あとCody・Lee(李)ってバンドを超推してます。なんか冬って何を聞いても寂寥感が込み上げてきてどうしようもなくります。

 

この街は地元よりは寒くないけど、それでも東京にしては寒いらしい、肌寒くなると家族と、11月に振られたあの子を思い出す。きっと人肌恋しいってのはこれなんだと思います。寂しい、でもきっとこの感情も失うんやろうけど。

 

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