雪の降った日。

東京に大雪警報が出た。10cm以上の積雪が見込まれるだとか、公共交通機関の計画見合わせだとか、前日から流れるニュース番組では雪をまるで災害かのように取り扱って、大袈裟な報道が流れ続けていた。
実際蓋を開けてみると、自分が住む地域では雪こそ降ったものの積もる気配もなく、ここ数週間の気温に比べるとキンとした緊張感のある寒さを感じたものの、ニュースで取り上げられていたような事態にはならずに済んだ。
そんな報道を知っていたにもかかわらず18時に駅で待ち合わせをして、駅前にある反社会勢力の構成員のような風貌をしている店主がいるラーメン屋に行く予定を立て、家を出た。17時50分を回る少し前に「今起きたので急ぎます、暖かいところで待ってて」とLINEが入ったので駅前の高層のショッピングセンターでぼーっと時間を潰すことにした。
最近思うのは自分が時間の使い方が非常に下手だということ。自己管理と言われるその類の特に時間管理が苦手であることに気がついた。例えば、夕方に予定が入っている日の午前中はよほど緊急の用事でない限り、どこか落ち着かなくて他の予定を入れたり活動的になったりすることに抵抗があって、ほとんど睡眠と惰性でスマートフォンを眺めて約束の時間が来ることを待っていたりする。だからこういう誰かを待つための時間潰しとなると尚更難しい。
結局ショッピングセンターの通路の端に置かれてあるソファーに腰掛けて殆どの時間をそこで過ごしたが、その位置に着席して20分を超えたあたりからそのソファーに対面するアパレルショップの店員がこちらを気にしているような過剰な自意識によって居心地が悪くなって席を立った。
駅前のショッピングセンターといっても、東京の郊外の方ではいわゆる田舎のショッピングモールの見てくれだけを少しスタイリッシュにしたようなもので、特段若者向けというわけでもなく、どこにでもあるような全国展開のアパレルや量販店が詰め込まれているだけで、興味を惹かれるような店舗はなく、この先の時間の潰し方を考えながらワンフロアずつ眺めて回った。
8階まで登ったところで、スポーツ用品店と本屋の2店舗だけのフロアに到着したので、ふらっと足を運んだ。新書や、芥川賞受賞の話題作など今店側がイチオシしたいと言わんばかりに目立つ本棚の右半分は最近亡くなったという報道をテレビで見た著名人の作品がずらっと並べられていて、追悼の文字が見えた。
例えば自分が亡くなったときに、自分が世に残した作品が死をきっかけに評価あるいは再び注目を浴びることが嬉しいのだろうか、それとも出版社やその他各方面の大人たちが利益を得るための道具として利用されている気がして不快になるのだろうか、そもそも亡くなったあとに売れた本の売上は誰の懐に入るのだろうか。死人には口どころか、その全てが失われてしまうからそれら全ての思考が無駄であることはわかっていても、死と金が結びついてしまうことをどこかまだ受け入れられない感覚が気持ち悪く感じてその本棚から目を逸らした。
直後に他人の死を客観視する自分を、あたかも死というものが自分にとっては随分遠いものだと認識していると感じたことにも、なんだか呆れ返るような思いになって、そうこうしてるうちに約束の時間が来て、再び改札の前の乗車券売り場まで相手の到着時間との帳尻を合わせるためにゆっくりと歩いて向かった。
結局1時間ほど待ち合わせに遅れて来た相手と20分ほどでラーメンを完食した。自分は少食で食べるのが遅いと思っていたけれど、普段から食を共にする慣れ親しんだ友人達が早食いなだけというくだらない発見があった。
まだ19時半頃だというのに街は形だけでもと、政府の発令に従いながら、カフェも含めた飲食店が閉まる気配で一杯だった。
行く宛もないので自分の部屋に着き、不安定で真ん中の支柱は傾いてる自室の寝具に寝転がりながら他愛無い話を繰り返している途中で「わたしはみんなのものだから」と自信に満ちた表情で、尚且つ冗談めいた口調で話されたときに思わず「みんなのものなんじゃなくて、誰のものでもないだけじゃないのか」という言葉が頭の中に浮かんだ。今思えば個人が個人として生存していく上で例えそれが恋人や配偶者、親であったとしても誰かの所有物になるという感覚自体がそもそも間違っているんじゃないか。なんて講釈を垂れてみるものの、所有こそされていなくても個人なんて存在は社会、国、世界そんなものに半強制的に属するように作られていて、そしてそれを人間も望んでいて、所有される事と属することに感覚としても大きな差異がないことを自覚して、結局のところ子供が大人ぶりたいがための詭弁だと思った。

それに、もしその相手が誰のものでもないのだとしたら、誰のものでもない人間のなんでもない自分がやけに見窄らしく思えて仕方がなかった。
しばらくして来客を見送るために部屋を出て、姿が見えなくなってホッとしながら部屋に戻ると、さっきまで気付かずにいた嗅ぎ慣れない匂いにやるせなさだけが残った。

他人の不幸の上の幸福。

人の幸せが人の不幸のうえに成り立つ。みたいなことが結構謳われますよね。この言葉が実際指してるのは、具体的に言えば発展途上国で低賃金で働かされてる人がいるおかげで、先進国に住む人々が安価にそれらの人が作り出した何かを享受できるみたいなことやと勝手に思ってます。つまり得をするやつがいれば、その得は誰かの損の上に成り立ってるってことが言いたんやろなっていう勝手な解釈です。でもまぁ実際幸福と不幸が常に表裏一体みたいな風には思ってなくて、というかそんなことを言い出したら人間が生きてること自体が他の生物へ不利益を及ぼしてるんだから生きてるだけで幸せで生きてるだけで不幸を生み出してるみたいなことになりかねないから、結局は割り切らないと仕方ないというか、どこをどうやって切り取って見るかだけの話で、人は人に都合よくしか物事を考えられないし、他の生物もきっとそうで、なんなら理性を持つ人間の方が他の生物への配慮はもしかしたらできてるんかもしれんし、生きてるだけで幸せでそれだけで不幸を生んでるなんて考え方はあまりにも悲観的だなと思います。でもそんな風に捉えられる自分でも、誰かが幸福になることを純粋に喜べない瞬間や相手がいて、というか醜い話ですが、特定の誰かが幸福になっていたり、自分が不幸を実感している瞬間の他者の幸福が許せなくなったりして、自分の器の狭さを実感して、不幸を勘違いして、勝手に不幸になっていくみたいなことが多々あります。でも多分きっとそいつも幸福なんじゃなくて、俺が勝手にそいつは幸せだと思ってるだけで、俺は不幸なんじゃなくて、勝手に不幸だと思い込んでるだけで、つまり何が言いたいかって言うと、不幸の上に成り立つ幸福なんてのは実際のところ、存在しなくて、勝手に不幸だと思い込んでるやつが勝手にそう言ってるだけなんじゃないかとも思うわけです。つまりは許せれば幸福になれずとも不幸だと勘違いすることはなくなるんじゃないかというお話でした。読み返したら絶対何書いてるかわからんと思う。

セカイの大きさ。

タイトルは別に物理的な地球や人間の存在する社会のデカさを指してるわけじゃないです。単純に俺を取り巻くセカイについての話。俺を通して見る完全な主観のセカイの大きさは自分が高校生の時よりも遥かに狭くなってる。俺の今のセカイはせいぜい6畳のワンルーム、駅前、大学、たまに行く河川敷。くらいの大きさ。というのも考えるってことがここ1年くらい出来なくなってたからです。考えることを放棄してる。自意識から開放される。とかそんな風に誤魔化してたけど、違う。確実に生活ってやつで手一杯になってたってだけってこと。洗濯せなパンツないなとか、明日の飯どうしようとか、大学の課題やばいなとか、彼女と喧嘩して萎えるとか、文章にすると嘘くさいくらい現実味がありすぎる日々を過してたってことです。これが充実であるといえば多分そうで、これの積み重ねと付随してたまに起こるイレギュラーを人生とか皆言ってるんですよね。多分。

そんで俺はこの生活ってやつで手一杯で、まだ何も形に出来てない感性と言うには大袈裟かも知れんけど、感じて疑問を抱いて反抗して表現するっていう一連のプロセスを腐らせようとしてたってことに気付かされました。放棄してた訳じゃなく、できてなかっただけ。

だからセカイはどんどん狭まっていった。昔みたいにムカついたり、羨んだり、見下したり、蔑んだり。最低かもしれんけど、そうやって感じてたものに対して興味を失って、無関心になっていくと、自分の手の届く範囲はどんどん自分が満たされてる部分にだけフォーカスを当てるようになってくんすよね。だから狭くなってくる。

勿論良いとか悪いとかないし、正直そういう日々も大事で、確実に自分は満たされていて幸福やったんやなと感じるし、後悔とかそういうのは全くないけど、正直ちょっとだけ自分の想像してた自分とは違うし、変わらないものはないけど変わりたくないって思ってたタイプの人間やから、ちょっと失望みたいな感情はあります。

だからセカイを広げてみようかなって思う。意識的にできることじゃないかもしれないけど、コロナってやつの影響で色んなことが自粛ムードで、色んなことが出来なくなってる中で、俺ができることはセカイを広げることかもしれんって思ったわけです。

感じることや考えることができなくなるなることは、確実に恐ろしい。僕が僕である必要性がなくなるから。こんな数人しか見てないであろうブログで感じて考えて反抗しても、何の意味もないみたいなことは実感済みです。だからこれは俺の日記でいい。ちゃんと考えてるし、ちゃんとムカついてるよって確認の場所にしたい。

断食報告

Twitter見てくれてる方はご存知と思いますが、6日間の断食生活を送ってました。理由はプライベートでは彼女に振られ、その後生活リズムや食生活の崩壊、度重なる体調不良や肌荒れに悩まされていて、YouTubeの企画で断食生活をしてる動画を見て、結構断食で改善されそう!っていう安易な理由です。

以前に友達が断食してたけど、それは立派な理由付けがあったけど俺はもっと安易に健康に気を遣うという意味で断食生活を送ってました。

Twitterでレポしてたからその画像貼って、ほんでこっちでまとめていきます。


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1〜2日目は準備食いうて玄米と味噌汁だけで過ごしてました。1食分しか食べれないという縛りはあったものの、ここ最近一日一食で生活してたので正直なところここでめちゃめちゃキツイって感じではなかったです。ただ玄米と味噌汁っていう精進料理的なものしか食べれないストレスはやっぱり感じました。普段はバンバンジュース、マック、ラーメン、お寿司、みたいな生活を送っていたので余計。好きなものを好きなタイミングで好きな量食べれる心の余裕と、決まったものを決まった量しか食べれないっていうのでは全然精神的な部分で違いました。人間はやっぱり我慢や、してはいけない系の物事に弱いっぽいですね。でも2日目の準備食後はだいぶ腹が減ってしんどかったです。

3〜5日目 ここがやっぱりめちゃめちゃしんどい。3、4日目がまじで地獄でした。YouTubeで逆にめちゃめちゃ料理動画見てしまう。断食終わったら何食おうかずっと考えてしまうみたいな今思うと無駄な時間も結構ありました。体調としては、目眩、立ちくらみ、頭痛、これが慢性的にあります。僕は基本的にコーラを毎日飲んでるんですけど、カフェインと糖分を日常的に過剰摂取してたこともあり、一種の中毒状態に陥ってました。頭痛や目眩の原因はカフェインや糖分を摂らなくなったことで間違いないと思います。実際断食後にご飯を食べる中で糖分を摂ると頭痛や目眩といった症状は起こらなかったですし、自分の体を知るいい機会になりました。コーラを控えるかと言われるとおそらく控えないですが、以前よりかは減らしていこうかなと考えています。体調面で言うと、前述したような症状に加えて、疲労感や倦怠感がすごいです。これはカロリーを摂取しないので、体内にあるエネルギーを消費することで体が生命活動を維持しようとするからっぽいです。(ソースはないけど)空腹感に耐えられない時はコンビニのカゴメの野菜スムージーを飲んでたんですが(これがまじで美味い)買いに徒歩3分くらいの近くのコンビニに歩くだけで帰ってきたら足がガクガクいってて、学生時代の持久走後を彷彿とさせる疲労感でした。(しんどかった)

4日目か5日目に自室でやばい立ちくらみと目眩に襲われた時は、ジェットコースターは苦手で人生で数回しか乗ったことないんですが、今自分がジェットコースターに乗ってるかのように平衡感覚が失われて、ベッドになんとか倒れ込めたけど、今思うと机とか床で頭打ってたらどうなってたかわかんないです。

くそしんどかったんですが、プラスの要素を言うと、断食によって食欲が研ぎ澄まされる結果、色んなことがどうでもよくなります。僕は振られた元カノと連絡をとっていたんですが、(向こうから連絡がきたため)既読無視され始め、多分普段なら病んでるところ、そんなことよりご飯食べたいとか、そんなことより腹減ったとかのが全然感情としては強くて、結果まじで気にならないし、気持ち的には割とポジティブになってました。メンタル面は結構安定というか、しんどさを超えてきてるから病むとか考えすぎるとか、そういうことはないです。これはまじでよかった。当たり前のように毎日一緒にいた彼女を失うのも確かにしんどいですが、当たり前のように毎日行ってる、寝れない、飯食えないよりしんどいことなんかないって気づくし、そもそも身の危険を感じます。嫌なことは嫌なことで制することができることに気づいてしまいました。

3〜5日目の感想はこんな感じです。常にある空腹感と体のしんどさと戦い続けてました。まじで死ぬかと思ったみたいなことはないけど、普通に体は慢性的にしんどいし、調子がいいみたいなことはなかったです。ただ前述した感じで気持ち的にはご飯が食べれない以外の精神的しんどさはないです。

5日目夜。72時間の断食を終えて、回復食を食べてました。メニューは玄米、漬物、味噌汁です。正直72時間ぶりのご飯ってことでめちゃめちゃ期待してたんですが拍子抜けです。期待値はでかくなればでかくなるほど、この回復食のしょぼさに落胆します。所詮玄米は玄米、味噌汁もめちゃめちゃ薄めてるし、漬物はマジでうまい。でもこれも漬物本来のうまさでしかないって感じでした。まあ当たり前なんですけど、普段から外食や家でも美味しいものを満足に腹いっぱい食べれる時代なんで、舌は間違いなく肥えてるし、断食したからといって、玄米がラーメンより美味く感じるとかそんなわけがないんです。断食して1食目にラーメン食ったらそらそっちのが美味いに決まってるし、断食してなくてもラーメン食った方が断食後の玄米より美味いんです。だからまぁ今後断食するよーって人は過剰な期待はやめましょう。普通です。ただ食べれるっていうのはありがたいことで、5日目とかはめちゃめちゃメンタルが安定してました。ご飯にありつくことしか考えてませんでした。

6日目回復食から普通食。6日目は玄米をお茶漬けにして食べました。これはまじで美味しかったのとありがたい感じがしました。素の玄米はやっぱり美味しくないっぽいですね。昼間は白米、鮭、味噌汁、漬物にしました。これが最高に美味しかった。まじで日本に生まれてよかったって思いました。和食最高。朝から歯医者に行ってて、昼時には駅前にいたのでマックやラーメン等様々な誘惑があったんですけど、気持ち的にはジャンクフード食べたいけど、食べようとは思わないみたいな感じでした。今食べたら気持ち悪くなるなってのが安易に想像出来たし、断食後はやっぱり胃に良さげなもの食べたいなって思って自然と家に帰ってちゃんとした和食を食べてました。これはマジで正解やったと思います。絶対マックやラーメンより美味しくかつ健康的やったと思うし、内蔵も喜んでたと思います。リアルに白米がめちゃめちゃ美味く感じました。これはまじです。最高でした。ほんで回復食と普通食食べてめちゃめちゃ元気なりました。まじで3〜5日目に感じたしんどさは一切ないし、すこぶる調子がよくなって、活動意欲もめっちゃ湧いてきました。ご飯食べるの大事です。

感想はこんな感じかな。長々と書いたけど、結局断食してみてどうなんっていうまとめなんですが。空腹はまじで一緒です。朝からなんも食ってなくて晩飯待ってる時の腹減ってる感覚みたいなんあると思うんですけど(1日の中で最高に腹減ってる瞬間)あれに変わりないです。ただそれが超ハイペースで来る感じ。腹減るの通り越したわみたいなんあるけど、結局また腹減ります。通り越したのを通り越します。だから極限状態は意外と感覚としては気づけなさそうかなって感じです。普段感じてる空腹と同じ空腹感があるだけなんで。ただ体調に明らかに変化が出るんで、まぁそこが大きな違いですね。空腹感に関してはそんな感じです。

体調は人によるけど、僕はめちゃめちゃ悪かったし、断食中に活動できる気がしませんでした。頭痛目眩立ちくらみっていう最悪のスリーコンボが常に発動されてたし、ずっとゴロゴロしてました。まじでダメ。人によっては逆に体調良くなったりするらしいんでこれは一概に言えないですけど、僕はダメでした。ただ普段結構お腹壊してトイレ行くこと多いんですがそれはなかったですね。腸内がリセットされた証拠っぽいです。

味覚はやっぱり多少研ぎ澄まされます。ものによっては全然普段より美味しく感じるし、ありがたみっていうのも感じられてイメージで美味いって錯覚してるかもしれんけどそれでも感じられるならそれでいいです。まじで白米最高って思えたし、ご飯何食べよって結構食事にポジティブになれてます。これは最近食事を疎かなポジションに置いてた自分にとってはいい効果でした。

肌は綺麗なります。断食効果かはわかんないですけど俺は結構ザラザラ感が消えて、綺麗になりました。

メンタルは3日目までは落ちるけどそれ以降は割とポジティブというか、食事以外の心配事はなくなります。結果いい方向に向きます。

体重は落ちます。46.5▷45.5になってました。ただこれは一時的に腸内に何も入ってないのと、水分が抜けたりしてることで減ってるんで、脂肪とかが減ってるわけではないっぽいです。実際ご飯食べて測ったら46.2やったんで。ただ数値でもいいから落としたい時は5日で1kg落ちるんでそこそこ良いダイエットやと思います。あと俺が普段食べな過ぎて1kgしか落ちてないですけど、実際ちゃんと食べてる人なら2kgくらいは落ちるはずです。俺はまじで体重が限界まで落ちてる、、、。

 

総じて言うと断食は大したことないです。健康になったかといわれれば別に実感無いし、ポジティブってか食事のことに特化した脳になっただけやし、肌綺麗なったんも生活リズム整えれば可能やし、みたいな。多分食生活と生活リズム整えた方が色々効果的やと思いました。

僕の場合副作用的に断食中は体調不良とかもあったんで、余計に断食で得られるメリットはデメリットと比較して考えると少なかったっぽいです。

でもまぁやってみたいなと思ってたし、相対的にあんま良くないけど、普通に良いこともあったって感じやし、個人的にはやってよかったなって思うし、いい経験やなーって思ってます。やることに意味を見いだせる感じはするし、なんか達成感もあっていい感じです。ただめっちゃ効果あるよ!とかオススメだよ!とかはないです。ほんまに人によるし、効果は多分そんな感じれへんしって思います。まぁでも自分的には我慢から開放される瞬間の快感を得られた感じがあるんで、なんかのタイミングで今後も断食取り入れて行こうと思います。

ちなみに夜は餃子とレモンサワーで優勝しました。まじで餃子美味かった。レモンサワーもまじで久々で最高でした。ただ腹の調子は良くないかもしれないです。(本末転倒すぎる)

めちゃめちゃ長なってもうた、読んでくれてありがとうございました。

最近しんどそうやな〜、俺。

このブログの裏タイトルというか、最初につけようと思ってたタイトルは「愛すべき虚構のワタシ」やったけど、余りにも臭すぎるし、そんな自分にも嫌気がさしたからやめたけど、結局言ってしまってるな。

まぁ今日言いたいことは最近俺ちょっとしんどそうじゃない?ってこと。

前にブログに彼女に振られたことを書いたけど、そこからダラダラと連絡とったり、会ったり、一緒に過ごしたり、無駄な時間を経て完全に決別を果たした。

それからの俺といえば、今まで関わり無かった後輩と電話したり、先輩と毎週遊んだり、今まで関わったことの無い人と関わる機会を設けたり、5年ほど行ってない歯医者に通ったり、なくしてほったらかしにしてた通帳を再発行しに行ったり、断食したり、美容室に行ったり、IKKOが教えるフェイシャルマッサージやったり、ダーツやビリヤードを始めたりしてる。おかげで大学の単位が危ぶまれ始めてしまった。

まぁなんというか、今までの俺では起こさなかったアクションを起こしまくってるってわけです。でもこの原動力の正体は確実に元カノに振られたことってのが癪に障るけど、人間はやっぱ何かを失うとか、ネガティヴな出来事の後にはなぜか活発になるっぽい。寂しさを紛らわすためか、今までのぬるま湯に浸かってた自分を自省したか、はたまた何かで埋め合わせを図ろううと思ってるのか。まぁ全部かな。

んでまぁ、元カノのことももう擦りすぎて、おもんなくなってきてるでしょ。みんな。俺も言いすぎて、なんかもういいやってなってます。大事にしてたけど、今はもう大事にする必要が無くなった。それだけのことっす。遊戯王カードとかニンテンドーDSとか、そういうのと同じで、時間とともに手放していく大事なものってのは一定数あるっぽいし、固執も執着もさすがにだるなってきたなぁって瞬間にふと我に返りました。なんや俺、めちゃめちゃ頑張ってるやん。バカしんどそう。本来の俺っぽくないなって気づいてしまって更にしんどいフェーズに入った。俯瞰で見て、俺ってこんなやつやったけ、てかこんな状況はあるきっかけから生まれたんやし、この俺は虚構やなぁみたいな感じで気づいちゃって、悲しくなったみたいな。まぁこれは前々からの主張ではあるけど、人は多面的やし、この活動的な俺もある種俺の一面ではあるんやけど、このタイミングで生まれた自分やとしても、元々いた自分があるきっかけで引っ張りだされてたとしても、どちらにせよ外的要因によって自分がブレてるというか、動かされてる感じがめっちゃきもくなってしまって、そういう自分を労るためのまじの駄文。こういう状況だよね、今の自分。可哀想だよね。ってそんな文章読んで誰がおもろいねん。って感じやし、誰も読んでなくていいよ。とまで思う。今回はまじです。

ただ人と関わる中で得られた気付きはでかい。俺は怖く見られがちやけど意外と優しいって印象を持たれるとか、意外と面識ない2個下と仲良くなれるとか、本いっぱい読んでそうに思われるとか、なんか全然俺自身が認識する俺とは違う面がどんどん引っ張りだされて、気付かされる、この時間は多分元カノとダラダラこの部屋で過ごしてたあの時よりも有意義なんやろ。まぁ比べたって意味は無いが。そういうことで、俺は俺を労る。断食も終わったし、餃子とレモンサワーで優勝するとしよか。

ヤマアラシのジレンマ

Googleで検索。ジレンマとは。俗に、相反する二つの事の板ばさみになって、どちらとも決めかねる状態。タイトルはエヴァンゲリオンから拝借。本来の意味を正しく認識してないけど、エヴァでは主人公のシンジが人と関わりたいと思う反面、傷つくたくないから心を閉ざして人と距離を置くシーンでミサトがその状態を表すのに使ってたワード。唐突に今まで記した記事と言うにはあまりに稚拙な文章を非公開にした。事の発端は自分が主張してることや、思うことが他人にとっては間違いだと感じたり、否定的な捉え方をされることを考えたから。今まで自分が自分の主義主張を唱えてきたのは、受信するほとんどの人間が自分にとっていわゆるどうでもいい人間だったから。その人達にどう思われようが、自分にとってはどうでもよかったからということに気付いた。そういうどうでもいい人達を対象にすれば自分を主張できるのに、いざ自分が好きな人、信頼する人、また逆も然りで好きでいてくれたり。共感してくれる人のことが頭をよぎった。その瞬間に自分が思うことを発信することはそういう人達を傷つけたり、失望させたり、嫌な思いをさせたりすることばかり考えた。その結果あまり文字を書いて主張することに対して後ろ向きになってしまった。

よく恋愛が引き合いに出されて、好きな人の前では上手く素の自分が出せない、逆にそうでも無い人の前では素が出せて魅力的に見えてその結果好意のない相手から好かれるみたいなのを聞く。結局恋愛に絡めなくても人間って言うのはそういうもんやと思う。恋人には全部さらけ出せる人もいれば、大事で一緒にいたいからこそ自分だけの問題として解決させたり、友人に相談してみたり、それが結果的に恋人を苦しめてしまったり、近しければ近しいほど無意識に無自覚に人を傷つけてしまうこともある。そういう意味で親しい人間がいないと生きていけないという反面、誰とも関わらず1人で生きていけたらいいという二律背反的な感情も芽生えてくる。

1人が1つの性格や考え方を持つわけじゃない。常に多面的で、色々な面の自分がその時のその時で表面になる。裏がありそうってのはそういうことで、意図的に表面や裏面にしてる人もいると思うけど、多くの人間がそれを意図せずにやっている。だから自分の主張も時々で変わるし、もちろんそれを受け取る人間がその主張を見る時の顔ってのは違う。もちろん共感や賛同は嬉しい。安心するし、満足出来る。でもそれは結構諸刃の剣みたいな面があって、俺のこの文章に共感しても、俺の明日の考えには真っ向から否定的な考え方を持ってるかもしれないし、時間が経てば色々なものが変わっていくのは当然で、そういう中で今嫌われる、今どうこう思われるってのは暫定的な過程でしかなくて、それが未来に繋がった時にプラスに少しでもなればいいのかなと思ったりもする。人は誰もが誰かを傷つける。無自覚に無意識に、ただ傷つけたことに気づける相手や、嫌われたことに気づける相手は自分にとって価値がある人間であるってことには間違いない。俺の事を嫌ってくれた人、傷つけた人には感謝したいし、俺のこと好いてくれる人は愛したい。生産性は無くても、思うことを言葉にすることは続けていきたいと感じる。

忘却

なんというか最近は上手く眠れんことが多くて、眠くなるギリギリまで起きてて、寝落ちするみたいな生活。典型的な休みの生活リズム。まぁ別にどうでもええねんけど。

正直に言うと長期休みの最終日ってめちゃめちゃ嫌いです。なんというか、明日から学校っていう憂鬱とかもあるし、なんか寂しさとか不安感が強い。なんやろなこの気持ち。小学校の時、だいたい宿題終わってなくて次の日怒られるってわかって嫌な気持ちとか、課題明けテストでしんどかったこととか思い出してんやと思う。人間は経験に基づいて生きてる思ってるからから、あながち俺の予測は間違ってないと思う。経験っていうと大袈裟か。まぁ表現がそれ以外思いつかんかった。

実際学校や仕事に行ってしまえば感覚なんて自然と取り戻せる有能な生き物が俺らで、この憂鬱なんてせいぜい数十時間のものでしかない。

人間関係においても同じかもな。一定の人間関係を築いて、対象と別れたり、疎遠になったりすると一定期間の憂鬱を忘れ去って、また元通りもしくは新しい生活を手に入れる。恋人も友人ももしかしたら消費物なんかもしれんと最低なことを考えてしまうような日もある。それでも長い間連絡とってなかった友達とか、元恋人とか意外と会ってみればまた当時のように話せたりして。不思議やな。忘れてんのに、思い出せるって。そんな帰省期間でした。

地元に帰ってきてほとんど毎日友達と会ってたから、正直死ぬほど寂しいし、ふと孤独を認識して悲観するときもあるけど、カヲルも「人間は寂しさを永久に無くす事はできない、人は一人だからね、ただ忘れる事ができるから、人は生きて行けるのさ」って言うてるし、忘れるってのは俺らが生きるために与えられた便利機能なんかもしれん。救われてるわ。ありがとう。

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