セカイの大きさ。

タイトルは別に物理的な地球や人間の存在する社会のデカさを指してるわけじゃないです。単純に俺を取り巻くセカイについての話。俺を通して見る完全な主観のセカイの大きさは自分が高校生の時よりも遥かに狭くなってる。俺の今のセカイはせいぜい6畳のワンルーム、駅前、大学、たまに行く河川敷。くらいの大きさ。というのも考えるってことがここ1年くらい出来なくなってたからです。考えることを放棄してる。自意識から開放される。とかそんな風に誤魔化してたけど、違う。確実に生活ってやつで手一杯になってたってだけってこと。洗濯せなパンツないなとか、明日の飯どうしようとか、大学の課題やばいなとか、彼女と喧嘩して萎えるとか、文章にすると嘘くさいくらい現実味がありすぎる日々を過してたってことです。これが充実であるといえば多分そうで、これの積み重ねと付随してたまに起こるイレギュラーを人生とか皆言ってるんですよね。多分。

そんで俺はこの生活ってやつで手一杯で、まだ何も形に出来てない感性と言うには大袈裟かも知れんけど、感じて疑問を抱いて反抗して表現するっていう一連のプロセスを腐らせようとしてたってことに気付かされました。放棄してた訳じゃなく、できてなかっただけ。

だからセカイはどんどん狭まっていった。昔みたいにムカついたり、羨んだり、見下したり、蔑んだり。最低かもしれんけど、そうやって感じてたものに対して興味を失って、無関心になっていくと、自分の手の届く範囲はどんどん自分が満たされてる部分にだけフォーカスを当てるようになってくんすよね。だから狭くなってくる。

勿論良いとか悪いとかないし、正直そういう日々も大事で、確実に自分は満たされていて幸福やったんやなと感じるし、後悔とかそういうのは全くないけど、正直ちょっとだけ自分の想像してた自分とは違うし、変わらないものはないけど変わりたくないって思ってたタイプの人間やから、ちょっと失望みたいな感情はあります。

だからセカイを広げてみようかなって思う。意識的にできることじゃないかもしれないけど、コロナってやつの影響で色んなことが自粛ムードで、色んなことが出来なくなってる中で、俺ができることはセカイを広げることかもしれんって思ったわけです。

感じることや考えることができなくなるなることは、確実に恐ろしい。僕が僕である必要性がなくなるから。こんな数人しか見てないであろうブログで感じて考えて反抗しても、何の意味もないみたいなことは実感済みです。だからこれは俺の日記でいい。ちゃんと考えてるし、ちゃんとムカついてるよって確認の場所にしたい。