と りと め もない 。

久々にこうやって言葉を書いてると、

伝えることの難しさに直面する。

何が言いたいのか、何が伝えたいのか、一貫性を全部失ってしまう。

ガソリンは満タンで走り出したはいいものの、目的地が定まらずダラダラ走ってる途中でガス欠になったみたいなことを僕はこのブログでしているので下書きだけが山ほどある。

こういう所が自分の人生とリンクする。

結局中途半端なままだ。

自分に才能やセンスがあるとは思わないし、秀でているとも思わない。

ただみんながそれなりにできることを、それなり以上にはできたりするだけで、みんなができないようなことができるわけではない。

手の届く等身大の人間。

こんな僕にでも、僕の言葉や想いに賛同や共感してくれる人も少なからずいた。

それが自分の強みだなんて思ったことは無いけど、僕が何かを発信することが僕の側にいる誰かや何かには伝わっていて、与えられているってことを実感していた。

昔の話を引っ張り出してくるのは、若い頃着ていた服を太ってもう入らないのにタンスから出してきて自慢するようなもので、いや今の自分を顧みろよと言わざるを得ないのでかっこ悪いことも重々承知だが、高校の文化祭軽音のステージでのMCにいくつかのリアクションがあったこともあった。

そうやって自分には何かあると信じていた頃の自分は本当に何かしらを持ってたのかもしれないし、本当にただの自惚れだったのかもしれない。

でも確実なことは今の何も無いことを自覚した自分よりかは幾分かマシであること。

プライドや自意識だけが肥大化するのはかっこ悪いと思ってたけど、それすらも失った人間はもっとかっこ悪いことに気づいた。

まさしくそれが今の自分である。

ここまで色々と書いたが、僕は僕を一度諦めた。

Twitterで呟きを控えたり、ブログを書くのをやめてみたり、インスタのキャプションにバカ長い文章を書くのを恥ずかしがったり、軽音のサークルで承認欲求だけを満たしてみたり、彼女を作って安易な幸せに浸ってみたり。

とにかく普通であろうとした。

自分が思い描けるだけの一般的な大学生の型に自分を当てはめてみた。

これは僕の中で諦めと同義だったし、自意識を飼い慣らしたつもりでいた。

それなりに楽しかったし、それなりに幸せだった。

20歳の誕生日、夜道を独りで歩いてる時にふと今迄の自分を思い返して、今の自分が悲しくなった。

過去を否定してるようで嫌になった。

今の自分が過去の自分から逃げるような選択をしたこと、それに満足しかけてたこと、そのまま死んでいこうとしてたこと、無性に腹が立って、8/2誕生日になる直前に近くの川辺まで泣きながら全力疾走した。

地元の友達から祝いを受けたり、彼女と電話したりした時、僕は川辺で泣いていた。

普通になりたくない、このまま死にたくない。

クソダサいな。今思い返してもダサい。

普通はダサくない、そもそも普通って何、ダラっとした幸せもあるし、時には辛いこともあるし、このまま生きて死んでくことはかっこ悪くないし、きっと満足出来る。

のに、それに酷く怯えたり、悔しがったり、泣けた時に、少し自分を取り戻したって表現は良くないか、また自分の中で変化があった。

殊更尖ったこと、変わったこと、大衆の目を集めること、尊敬されることはできないかもしれない。

そんな僕にでもできることは何かあるかな。

ただ届けようとすること、伝えようとすることはやめたくないなと思った。

誰のためでもない紛れもない自分のために。

ここまで長々と書いた割に中身は無いな。

これはまぁ典型的な自慰行為か。

結局綴ることも下手くそになった。

とりあえず今日は寝ます。

せめての夢の中ではスーパースターになれればいいのにな。